水野仁輔著「幻の黒船カレーを追え」を読んだ 。「銀座ナイルレストラン物語」(読書記録)を読んで、同じ著者が出しているカレーの物語、ということで本書を読んでみた。
今回の感想はややネタバレ気味なので、新鮮な気持ちで読みたい方は、この先を読む前に、本を読んでほしい。
では、ここからあらすじと感想を。
日本のカレーのルーツを探ると、明治時代に黒船に乗ってやってきたイギリス人から伝えられたレシピ(西洋料理通)に行き当たる。では、イギリスに行けば、当時のレシピで作られたカレーが今も食べられているのだろうか、ということを実際にイギリスに行って確かめたのが本書だ。サラリーマンの身で、何か月も現地調査ができるわけでもなく、著者は仕事をやめ、フリーランスの作家になる決断をする。
そういう意味では、本書はカレーを追った本であり、かつ、脱サラ(死語か…?)をした著者の旅立ちを記した本でもある。高野秀行氏の本もそうだけど、行動力がすごい。突き詰めるとはこういうことなのだろうか。
幻の黒船カレーは見つかったのか、についての結末も、高野氏の本に似ている。プロセスが同じだと結果もまた同じになる、のだろうか。
以下、記憶に残った言葉
P. 53「料理人が最後に頼れるのは、自分の記憶なんです」
イタリア軒の窪田秀行総料理長の言葉。窪田氏は著者にイタリア軒のレシピを渡しながら「この通りに作っても同じ味にならない」という。レシピに書けることの中に本当に大切なものなんて存在しない、と。
カレーのレシピ本を何冊も出しているカレー研究家の著者をもってしても再現はできないというのだから、腕が問題ということではないのだろう。
むしろ、個人の味覚の違いだと指摘している。そして「味覚とは、味を覚えること。単純な料理ほど技術の差が出るから難しい。だから体で、目と舌で覚えること」という。
例えばイタリア軒のルウが完成した時の音を「ルウが鳴く」と表現しているが、どんな音かは想像もつかない。
P. 61「古のカレーを今に伝えるレストランはなくはないが、僕が本当に知りたい歴史や当時のレシピまでが整理されているケースはない。誰だって明日を見ながら今日を生きている。老舗のホテルやレストランだって同じだ。」
著者が国内のレストランを回って、黒船カレーを探していた時の言葉。この言葉に、今回の旅が集約されている。
P. 145 「文献には一定の歴史的価値はあっても、その時代を映す鏡となりえるかどうかは疑わしいと常々思っていた」
いわれてみればその通りで、自分が普段食べているものはレシピ本にあるような凝った料理ではなくて、むしろ手抜き料理だ。最近は「クラシル」の簡単レシピを参考にありもので作ったものを食べている。
なので、昔のレシピというのも当時の権威の人がきれいにまとめたものであって、人々が食べていたものとは異なっているかもしれない、という疑いは理解できる。
カレーレシピ本を40冊以上も題している著者の言葉だから重い。
以上のように、カレーについてもこだわっていくと、料理以外に歴史や文献の信ぴょう性など様々な観点が表出してきて、とてもためになる。結局、総合格闘技になっていくのだ。
内容以外で、この本を通じて感じたのは「寂しさ」だ。過ぎ去ってしまった過去、報われない探索、会社のメンバーから個人、など、本書はある意味で喪失の物語となっている。ただ、村上春樹の小説のように、喪失ののちに新しい何かを感じる物語である。
そういう意味ではひたすら熱量を感じた銀座ナイルレストラン物語とはかなりテイストの違った本だった。